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「黒田 チカ 」 ―日本の化学の曙に輝いた初の女性化学者― 

前田 侯子

黒田チカ
理化学研究所で(1924年)

 黒田チカは1884年(明治17年)、マリー・キュリーにおくれること17年に九州佐賀に生まれた。日本の最初の女性化学者であり、また日本の帝国大学に初めて入学した初の女性理学士3名中の1人である。その生涯のほぼ50年は、洋の東西に分かれていたが、キュリー夫人とほぼ同時代に生き、研究分野は異なったがそれぞれに優れた業績を挙げた。
 黒田チカの歩んだ道は、明治、大正、昭和の第二次世界大戦前と、わが国の女性の社会的地位も権利もほとんど認められなかった時代にありながら実に堂々と輝かしいものであり、男女の別を越えてその後に続く化学を志す者の先達となったのである。

 黒田は、明治初年においてすでに「これからは女子にも学問が必要である」との意見を持つ進歩的な父のもとに育ち、17歳で佐賀師範学校を卒業して、1年間の義務奉職の後、当時の女子にとっては最高の学校であった東京の女子高等師範学校に進学した。黒田は文系、理系どちらの勉強も好きであったが、理科の実験は学校でなければ出来ないからと考えて理科を受験し合格した。卒業の頃には化学が一番好きになりもっと進学して深く勉強したかったが、その頃帝国大学は女子に門戸を閉ざしていてどうすることも出来なかった。それから7年後の1913年に、東北帝国大学が女子にも門戸を開いた。すでに女高師の助教授をしていた黒田は母校の先生方の励ましと推薦を受け、新しい出発に向け同年6月に、東北帝国大学理科大学化学科の受験へと仙台に旅立った。
 40名以上の受験者の中で黒田を含めて女子2名と11名の男子が合格した。日本で最初の女子帝大生が誕生した。黒田は29歳であった。

 東北帝大での真島利行教授との出会いは、その後の化学者としての黒田の生涯に決定的な影響を与えた。教授の専門分野の有機化学に黒田は最も興味を持ち、3年生の卒業研究を教授の指導のもとで行なうことにした。研究題目について教授から希望を尋ねられたとき、黒田は天然色素の構造について研究したいと答えた。教授はすでに材料を持っていた紫根に含まれる色素が結晶として取り出せたらテーマにしようと言い、黒田は1週間程で結晶化を成功させた。こうして黒田の天然色素の研究が始まった。
 このテーマは他の研究者も手がけていたが純粋な結晶は得られていなかったのである。黒田自身も結晶化に何度も失敗したが、その中で様々な化学の研究方法を学び、新しい方法を自ら工夫して多くの結晶を得ることが出来た。この結晶を使って紫根の色素の構造を明らかにする研究は、黒田の限りない努力と情熱に支えられ、様々な化学反応と分析を繰り返しその結果を総合的に考察して進められ、2年後にはシコニンと命名した色素の構造を世界に先駆けて論文に発表した。
 1918年に東京化学会で口頭発表したが、初の女性理学士の発表と世間が大騒ぎした。1921年(大正10年)から2年間は文部省外国留学生として英国のオックスフォード大学W.H.パーキン教授のもとに在外研究のため留学した。この時の文部省の辞令には、保井コノの場合と同様に、理科研究に併せて家事研究とあった。

 英国から帰国後は、女高師の授業の時間を除いては、新設の理化学研究所の恩師真島教授の研究室で紅花の色素の構造研究を始めた。すでに西欧や日本の化学者が手を付けながら進展はしていなかったテーマである。ほぼ5年にわたる紅との苦闘の末、1929年に黒田はカーサミンの構造を決定し論文に発表した。彼女に先立って結晶まで得ながら結果を出せなかった先輩化学者は、黒田の限りない熱心さと研究手段の優秀さを賞賛してその成功を讃えた。この論文で黒田は理学博士の学位を得た。女高師の4年先輩である保井コノに続く女性理学博士第2号であり、紅の博士と呼ばれた。シコニン、カーサミンとその後に行なった様々な天然色素の研究に対して1959年には紫綬褒章が、1965年には勲三等宝冠章が贈られた。黒田チカの名は、自然科学研究を志す女子学生のシンボルとして継承され、お茶の水女子大学保井・黒田奨学基金の他に、現在東北大学理学部では黒田チカ賞の創設が企画されているという。

 黒田は多くのよき師に恵まれた。これは黒田の優れた才能と温和で寛容な人柄によるものであろう。東北帝大受験に旅立つ黒田に、長井長義博士は「化学は物質を対象としているか物質に親しまなければならない。あなたはその資格があるから大丈夫」と励まし勇気づけた。黒田はこの言葉に深く感謝し終生心の支えとして女性化学者の道を歩み続けた。その絶えざる精進の軌跡と輝かしい業績は後進に無言の教えを示している。

(お茶の水女子大学名誉教授)

黒田チカ博士 年譜
年(M:明治,T:大正,S:昭和)
1884(M.17)3月24日,佐賀県佐賀郡松原町(現佐賀市松原)で生まれる.
1901(M.34)佐賀師範学校女子部卒業,小学校に義務として1年間勤務.
1902(M.35)女子高等師範学校理科入学.(18歳)
1906(M.39)同校理科卒業,福井師範学校教諭.
1907(M.40)女子高等師範学校研究科入学.(23歳)
1909(M.42)同研究科修了.東京女子高等師範学校助教授.
1913(T. 2)東北帝国大学理科大学化学科入学,日本初の帝国大学女子学生となる.(29歳)
1916(T. 5)真島利行教授のもとで紫根の色素の研究に着手,天然色素研究の出発点となった.
9月,東北帝国大学化学科卒業,日本女性初の理学士となる.同大学副手.(32歳)
1918(T. 7)9月,東京女子高等師範学校教授.
11月,東京化学会で[紫根の色素について] 発表,同学会初の女性の研究発表であった.(34歳)
1921(T.10)文部省外国留学生として在外研究のため渡英,オックスフォード大学W.H.パーキン教授に師事してフタロン酸誘導体を研究.(37歳)
1923(T.12)8月,アメリカ経由で帰国,関東大震災により,女高師での研究は不可能となる.
1924(T.13)理化学研究所嘱託(真島研究室)となり,紅の色素の構造について研究開始.以後研究活動は理研で行われることになる.
1929(S. 4)理学博士.学位論文[紅花の色素カーサミンの構造決定].
保井コノ博士に次ぐ2番目の女性博士となった.(45歳)
この頃よりつゆくさの青い花汁,茄子の皮,黒豆の皮,しその葉等の色素の研究に相次いで取り組む.
1936(S.11)日本化学会より第1回真島賞を受ける.(52歳)
1938(S.13)ナフトキノン誘導体(紫根の色素シコニンを含む)に関する研究開始.
1939(S.14)ウニの棘の色素(ナフトキノン系)の研究,(協同研究者とともに1964年頃まで続けられた).
1949(S.24)お茶の水女子大学発足,同大学教授.(65歳)
玉葱の皮の色素の研究を開始し,ケルセチンの結晶をとり出すことに成功,それは高血圧治療剤[ケルチンC]として1952年に実用化,工業化された.
1952(S.27)お茶の水女子大学退官,同大学名誉教授.(68歳) 同大学非常勤講師(1963年まで)
1959(S.34)紫綬褒章受賞.(75歳)
1965(S.40)勲三等宝冠章受賞.(81歳)
1967(S.42)1月頃から心臓を病み,東京,次いで福岡の病院で療養生活に入る.
1968(S.43)11月8日,福岡で逝去.享年84歳.従三位に叙せられる.