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「湯浅 年子」 ―海外で活躍したわが国初の女性物理学者― 

山崎 美和恵

湯浅年子
パリの宿舎の屋上で(1943年)

 湯浅年子は1909年(明治42年)東京に生まれた。少女時代から、自然現象に美や不思議を鋭く感じとって、やがて自然の窮極の姿を探る道を選ぶに到った。東京女子高等師範学校理科から東京文理科大学物理学科に進み、1934年同校を卒業して物理学研究の道に踏み出したが、男女差別はなお著しく、望むような研究の場を得ることは難しかった。その頃、フランスではジョリオ=キュリー夫妻が人工放射能を発見、その論文に感動して、キュリー夫人ゆかりの研究所で原子核研究に進む決意をする。

 欧州戦争が始まった半年後の1940年早春、到着したパリは戒厳令下にあって、外国人は研究所に入れないという厳しい状況に直面する。必至に訴えた研究への熱意を汲んで、コレージュ・ド・フランスに迎え入れてくれたのがジョリオ=キュリー教授(キュリー夫人の女婿にあたる)であった。研究所では、戦争にも国籍にも関係なく、また男女の別もなく、通じ合える科学者の心を知った。

 パリは程なくドイツ軍に占領され,ナチスの監視下という異常な状況のもと、研究生活にも異常な困難を強いられるが、研究への強い執念でそれを克服して行った。ジョリオ教授の指導のもとに、ウィルソン霧箱を用い、人工放射性核よりのα線やβ線の飛跡を解析して、崩壊の仕組みやエネルギー構造を研究した。霧箱を用いての人工放射性核の研究は当時日本を含む世界各地で行われていた最先端の研究であった。湯浅の,β線のエネルギースペクトルを解析して崩壊を起こす相互作用の型を決める研究は高く評価され、論文[人工放射性核から放出されたβ線連続スペクトルの研究]によって、1943年、フランス国家学位(理学博士)の学位を取得した。

 この間に戦局は世界戦争に発展し、英・米・仏の敵国側となった日本人はやがてベルリンに強制的に移され、一旦は研究の自由を奪われてしまう。しかし「研究をしたい」という一念はドイツ科学者を動かし、信頼関係を得て、空襲によって崩れ行く研究所でβ線分光器を作成。その完成直後ベルリンが陥落して、終戦直前に帰国、東京女高師教授に復帰した。器械はリュックサックに入れて持ち帰ったが、米占領軍の原子核研究禁止令によって、実験は阻まれてしまう。そして帰国から3年半後の1949年、ジョリオ教授の招聘によって再渡仏。以後フランスに留まり、1955年にはお茶の水女子大学を退職、フランス国立中央科学研究所所属の研究員として、フランスでゆるぎない地歩を固めて行った。

 再渡仏後の研究は、種々の核種のβ崩壊から始めて、1960年頃にはシンクロサイクロトロンを使う原子核反応に移行した。パリ近郊オルセーのパリ大学原子核研究所の重要なメンバーの1人として、つねに先端的問題に挑戦し続けたが、そのためには、マシンタイム、研究費、人員の確保等々、心労も並大抵ではなかった。1970年頃からは、核子の3〜4体散乱を解析して3体力の有無を検証しようという、非常に難しい少数核子系の問題に立ち向かっていった。研究成果は注目され、世界各地で開かれる原子核国際会議に幾たびか招待講演を要請されるなど、国際的に活躍した。1967年と1977年の東京での原子核国際会議にも招待講演や司会をつとめたが、帰国したのは、その2回の会議に際してのそれぞれ2ヶ月だけであった。

 祖国を離れていてもその研究環境に思いを寄せ、1967年頃から若手研究者を2、3年の任期でオルセーに継続的に招聘して実験に参加させるとともに、研究者間の日仏交流に力を注ぐことも忘れなかった。とくに少数核子系研究に対しては、日仏共同研究プロジェクトを提案し、その実現に強い執念を見せて、病を押して努力を重ねていた。1980年早春、その実施決定の報を臨終の床で聞き、超人的ともいえる活動の、70年の生涯を閉じた。1年後、日仏共同研究はオルセーで実施され、論文の最後に感謝の言葉が湯浅に捧げられた。

 湯浅の活動は研究室の中に留まらなかった。文化人の交流、フランス文化の紹介、渡仏邦人の世話等、多岐にわたってなされた 独自の日仏文化交流は、多くの人に忘れられない印象と感謝を遺した。女性科学者の問題に対しても、研究環境の改善に、地位の向上に、積極的に取り組み、戦後の学制改革に際しては、女子帝国大学設立に向けて、保井コノ、阿武喜美子、その他の理科系教官と熱のこもった議論を繰り返し、積極的に行動した。そして、わずかの帰国期間の活動は云うに及ばず、フランスにあってもそれらの問題に絶えず強い関心を寄せ続けていた。その活動に勇気づけられ、励まされて、多くの後輩達が科学の道へ志したが、それぞれの道程に心を配り、手をさしのべることを惜しまなかった。また科学と人生、フランスの学術や芸術、科学と宗教、等々に対して独自の省察を深め、『パリ随想』3部作を始めとする著書や多くの寄稿に、それらをを流麗な文章で語った。思いやり深く人間味豊か、しかし納得できないことは、徹底的に考え、議論し、妥協することがなかった。そして、きびしい内省を重ねつつ、ひたすら誠実にと誓いつつ、自らの道を歩み続けた一生であった。

(埼玉大学名誉教授)

湯浅年子博士 年譜
年(M:明治,T:大正,S:昭和)
1909(M.42)12月11日,東京下谷区桜木町(現台東区上野桜木)で生まれる.
1927(S. 2)東京女子高等師範学校理科入学.
1931(S. 6)同校理科卒業,東京文理科大学物理学科入学.(21歳)
1934(S. 9)東京文理科大学卒業,同大学物理学科副手(嘱託).原子核分光学研究開始.
1935(S.10)東京文理大退職,東京女子大学講師(1937年まで).
1938(S.13)東京女子高等師範学校助教授.
フランス政府給費留学生試験に合格.(28歳)
1940(S.15)1月,神戸港出航.3月,パリ到着.(30歳)
【パリは欧州戦の戒厳令下にあった】
4月,コレージュ・ド・フランス原子核化学研究所 F.ジョリオ=キュリー教授のもとで原子核研究開始.
【パリは6月よりドイツ軍占領下におかれた】
1943(S.18)12月,仏国理学博士の学位取得.
学位論文[人工放射性核から放出されたβ線連続スペクトルの研究]. (33歳)
1944(S.19)8月,英米軍パリ進攻により,ベルリンに避難させられる.
12月,ベルリン大学付属第1物理研究所ゲルツェン教授のもとで研究開始.
1945(S.20)4月,β線スペクトル測定用の2重焦点型分光器を完成.
【5月ベルリン陥落】
5月,シベリヤ経由で帰国の途へ,6月末,敦賀上陸.
10月,東京女子高等師範学校教授.
【米占領軍により原子核実験研究禁止令】
1946(S.21)理化学研究所仁科研究室嘱託(1949年まで).
1948(S.23)12月,京都大学化学研究所兼任講師嘱託(1949年まで).
1949(S.24)2月,再渡仏.5月,コレージュ・ド・フランス原子核化学研究所でCNRS(国立中央科学研究所)研究員として研究開始(主として原子核分光学の研究).(39歳)
1952(S.27)3月,お茶の水女子大学教授(東京女高師廃止).
4月,お茶の水女子大学休職. CNRS専任研究員.(42歳)
1955(S.30)9月,お茶の水女子大学退職.
1957(S.32)CNRS主任研究員(パリ大学原子核研究所,オルセー).(47歳)
1962(S.37)理学博士(日本,京都大学).学位論文 [6Heのβ崩壊に対するガモフeラー不変相互作用の型について].
この頃より中エネルギー領域の核反応の研究に移る.
1967(S.42)8月‐10月,原子核国際会議(東京)のため帰国.(57歳)
1973(S.48)5月,胃と胆嚢の摘出手術を受ける.(63歳)
1974(S.49)12月,定年によりCNRS退職,ただし研究員として研究活動続行.
1975(S.50)CNRS名誉研究員.(65歳)
1976(S.51)紫綬褒章受賞.(66歳)
1977(S.52)8月ー10月,原子核国際会議(東京)のため帰国.
1978(S.53)少数核子系に対する日仏共同研究案提出. (68歳)
1980(S.55)1月30日,パリ郊外アントワーヌ・ベクレル病院に入院.
2月1日,逝去.享年70歳.勲三等瑞宝章.