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2005. 7.16 OUCA講演会 「科学を広める」

理屈っぽい"作文好き"がたどりついた天職


青山 聖子
S52年化学科卒、S54年修士課程修了、H14年人間文化研究科博士後期課程単位取得退学
サイエンスライター/埼玉大学工学部非常勤講師

1.はじめに
 私はフリーのサイエンスライターです。研究者として一つの分野を究めたわけでもなく、同じ職場に長く勤めてそれなりのポストに就いたわけでもありません。そんな私がどんなお話をすればよいのか悩みましたが、結局、この仕事についたいきさつと、仕事上で経験してきたことをお話しすることにしました。きわめて個人的な内容になりますが、それを通じて、仕事の実際を皆様に知って頂けるし、これまでお世話になった方々のお名前をあげて御礼を申し上げることもできると考えました。

2.ライターデビュー
 小学生の頃から作文が得意だったのですが、中学1年生のときの理科の先生の授業がとても楽しくて科学に目覚め、化学科に入りました。修士課程を終えたとき、博士課程に進んで研究者になることも考えたのですが、研究への執着心も、体力や手先の器用さもないことに気づき、行政系の仕事に就きました。就職先は新技術開発事業団(現在の科学技術振興機構、JST)で、広報の仕事や、特許を実用化する企業に資金を貸す仕事などをしました。
 5年ほど勤めた後、長女を出産して退職しました。家事も育児も得意ではなく、毎日あたふたしていました。研究室の先輩である神保紀子さんからコンピューター関係の翻訳の仕事をいただき、娘が寝ている間にやりました。あまりお役には立てなかったのですが、細々とでも仕事をしていることは私の精神安定上重要でした。
 長女が3歳になった頃、細矢治夫先生が『現代化学』(東京化学同人)のインタビュアーに私を推薦して下さいました。最初に訪ねたのは金属材料技術研究所(現在の物質・材料研究機構)の太刀川恭治先生で、録音テープを聞いてまとめた記事が1987年 3月号に掲載されました。これが記念すべきライターデビューです。鉛筆で原稿用紙に書いた記事が活字になって誌面に載る――そのうれしさを知りました。
 それまで、こういう仕事があることに気づきませんでした。やってみて、科学にひかれる作文好きにとってこんなにぴったりの仕事はないと思いました。

3.夫の海外赴任で仕事を中断
 『現代化学』の仕事では、大先輩である東京化学同人社長の小澤美奈子さんと編集室長の三井恵津子さん、カメラと編集を担当して下さった田井宏和さんにたいへんお世話になりました。その一方、三井さんのご紹介で、やはり大先輩である藤田千枝さんと仕事をさせていただく機会を得ました。
 藤田さんは長らく子供向けの科学読み物を書いてこられた方で、そのときは、朝日少年科学年鑑の別冊として、歴史上有名な科学者を1人あたり1〜2ページで紹介するという企画を進めておられました。私はガリレオ、ニュートンなど物理関係の10人ほどを担当することになり、藤田さんから伝記や資料を拝借して読み、記事を書きました。この仕事は、科学史に疎かった私にとってたいへんよい勉強になりました。別冊も好評だったとのことで、のちに単行本になりました。【『科学者・探検家120人物語』(朝日新聞社)1989】
 こうしてようやく「書くこと」が仕事になりつつあったとき、夫が海外赴任を命じられ、同行しました。行った先は、サウジアラビア王国のリヤド市。いまのようにインターネットやメールが発達しておらず、仕事のできる状況ではありませんでした。代わりに、ヨーロッパへの休暇旅行で科学史ゆかりの地を訪ねたり、次女を生んだりしました。
 2年の滞在を終えて戻り、しばらくしてからまた、『現代化学』のインタビューをさせていただくようになりました。ほかにも、同誌のコラムを書いたり、英語の記事を翻訳したりするようになり、次女が2歳になってからは編集室にパートで勤務するようになりました。
 記事をたくさん書かなければならずたいへんでしたが、インタビューやコラムのための取材などで化学界の著名な先生方にお目にかかれましたし、研究者に依頼して記事を書いていただき、それを編集するという、新たな経験もさせていただきました。【インタビューした方】

4.芋づる式に広がった仕事
 『現代化学』編集室には5年ほどおりましたが、博士課程に進みたいと考えて退職しました。しかし入試がうまくいかず、何をしたものかと考えていたとき、研究室の先輩である栗原和枝さんがnature誌の日本語ページの仕事を紹介して下さいました。nature誌に毎週掲載される論文のうち、化学や物理分野の2,3本の第一段落を日本語に訳すのです。分量は少ないですが、最先端の内容ですからいろいろなことを調べなければならず、たいへん勉強になりました。
 同時に、この翻訳を通じて『日経サイエンス』編集部の松尾義之さん(現 白日社)と知り合うことができ、養老孟司先生がホストの対談記事を構成させていただくことになりました。「脳の見方、モノの見方」というタイトルで、毎月、脳にまつわる幅広い分野の方を招いての対談でした。【対談した方】この対談も後に単行本化、文庫本化されました。【文庫本『養老孟司 ガクモンの壁』と『養老孟司 アタマとココロの正体』(日本経済新聞社)2003】
 対談とは別に、養老先生が個人的に開催されるシンポジウムの構成係にも指名していただき、そちらでもいろいろな先生方のお話を聞くことができました。
 一方、翻訳の仕事も広がり、nature誌関連の単行本や細胞生物学の有名な教科書の翻訳メンバーに入れていただきました。【『細胞の分子生物学第4版』(共訳、ニュートンプレス)2004】さらに、これも栗原さんのご紹介で、日本生物物理学会の学会誌『生物物理』の編集もお手伝いすることになりました。
 こうして仕事が軌道に乗り始め、博士課程にも入った頃、父が倒れました。ほとんどの仕事をキャンセルし、父の世話を最優先にする生活となりました。

5.仲間を得て科学館の展示に挑戦
 半年ほどすると父の状態がだいぶ落ち着き、私も仕事に復帰しました。復帰第1弾は三井さんのご紹介で、バイオ分析機器メーカーの広報誌に載せる連載対談でした。かずさDNA研究所所長の大石道夫先生がホストで、ゲストは著名な生物学者ばかり。細胞生物学の教科書の翻訳経験はあったものの、生物分野の進歩は速く、キャッチアップするのがたいへんでした。これも、のちに単行本として出版されました。【『対談集 先端バイオの先を読む』(共立出版)2001】
 同じ頃、日本科学未来館の仕事が舞い込みました。『現代化学』に記事を書いておられた古郡悦子さんからのご紹介でした。古郡さんが入っておられる編集経験者のグループが展示企画の仕事を受けていたのです。展示フロアごとにテーマが決まっており、それをグループ内で分担することになっていました。私もこのグループに加わり、「生命の科学と人間」というフロアの担当になりました。
 この仕事では、展示の責任者である大学の先生方だけでなく、展示制作、グラフィックデザイン、映像制作などにかかわる人たちと密接におつきあいすることとなり、出版の世界しか知らなかった私にはとても新鮮な経験の連続でした。生命科学という分野や、展示という仕事の難しさも痛感しました。
 まる2年間この仕事にかかわり、オープン後のリニューアルが一段落したところで、今度は長女が病を得、また、ほとんど仕事ができなくなってしまいました。

6.そして現在
 半年後、落ち込んでいた私をまた仕事に引っ張り出してくれたのは、未来館の仕事で親しくなった映像関係者でした。国立科学博物館(科博)新館の展示映像制作を手伝ってほしいというのです。それが引き金となって、また、未来館のときと同じようにグループで分担して科博の展示にかかわることになりました。
 今度の私の担当は「宇宙・物質・法則」というフロアで、うれしいことに化学の内容が含まれていました。映像や展示パネルはもちろん、展示物をつくるのにもアイデアを出し、充実した仕事をすることができました。科博なので、小学生向けの「子ども解説」というものも作りました。難しい概念を直感的に伝えるために、解説方法やイラストを工夫するのがとても楽しかったです。科博新館は2004年11月に無事オープンし、その後、新館を紹介するコンセプトブックの編集もしました。
 現在は、グループでの仕事として、古巣であるJSTの月刊広報誌『JSTニュース』に取材記事を書いたり、総合研究大学院大学の『総研大ジャーナル』を編集したりしています。また、2006年1月からの『化学と工業』(日本化学会)の誌面リニューアルをお手伝いしており、記事も書くことになっています。
 個人的には、nature誌の翻訳や『生物物理』の編集を続けているほか、グループの仲間の協力も仰いで埼玉大学工学部で『科学技術作文』と『技術倫理』の講義をしています。学生数が多いのであまりきめ細かい指導はできないのですが、これまでの経験に基づいて、文章の書き方などを教えています。来年度からは、早稲田大学大学院に設けられた「科学技術ジャーナリスト養成プログラム」でも非常勤講師をする予定です。

7.これからも科学を伝えたい
 「サイエンスライター」と名乗っていますが、仕事の実態は、編集者、翻訳者、コーディネーターも含んでいます。それでもこの呼称にこだわるのは、どの仕事も「言葉を通じて科学を伝える」仕事だからです。この仕事の魅力は、第一線の研究者に会ってじっくり話を聞いたり、最先端の情報に触れたりすることができ、それらを自分の言葉で発信できることです。そして、科学といういとなみのすばらしさ、おもしろさを深く感じられることです。
 この仕事を通じて、専門家の言葉では伝わりにくい「科学のストーリー」を伝え、科学的なものの見方や科学的に正しい知識に基づく世界観の形成に少しでも役立つことができればと考えています。
 サイエンスライターを希望される若い方が増えていますが、そのための決まったコースはありません。市場も広いとは言えません。しかし、最近、科学者と社会の間をつなぐことの大切さが叫ばれ、ライター養成コースができたり、科学者による情報発信のための経費が認められたりとさまざまな施策が進められています。どうぞ上手に機会をとらえて、希望を叶えて下さい。
 最後に、どなたにも役立つ、文章の書き方の基本を申し上げます。いきなり書くのではなく、まず、誰に向かって何を伝えたいのかをはっきりさせ、材料と構成を決めてから書きましょう。技術的には、「一つの文を短くすること」と「事実、推定、伝聞、意見を区別すること」がポイントです。そして、書いたら声に出して読んでみて下さい。音読してみると、おかしいところはたいていわかります。【文章の書き方】
 ここに至るまでには、お名前をあげた方々はもちろん、ほかにも大勢の方々にたいへんお世話になりました。心よりお礼申し上げます。長時間にわたって個人的な話をお聞き下さった皆様、ご静聴ありがとうございました。


脚注
【『科学者・探検家120人物語』(朝日新聞社)1989】

【インタビューした方】
【対談した方】
【文庫本『養老孟司 ガクモンの壁』と『養老孟司 アタマとココロの正体』(日本経済新聞社)2003】
【『細胞の分子生物学第4版』(共訳、ニュートンプレス)2004】
【『対談集 先端バイオの先を読む』(共立出版)2001】
【文章の書き方】