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TOP講演会>放射能研究に殉じた人々−マリー・キュリーと山田延男を中心として−

第2回 お茶の水女子大学ホームカミングデイ(化学科共同企画)

2008年 5月31日(土)

放射能研究に殉じた人々−マリー・キュリーと山田延男を中心として−


冨田 功
お茶の水女子大学 名誉教授

 1896年、アンリ・ベクレルがウラン塩からの放射線を発見した。
翌年、マリー・キュリーは、学位論文のテーマとして、この放射線の研究に着手する。
そして、1898年、夫ピエールとともに、新元素、ポロニウムおよびラジウムを発見した。
化学者を納得させるには、新元素を取り出して見せ、あるいは原子量を決定することが必要であったため、夫妻は、ウラン鉱石からウランを除いた多量の鉱滓から新元素を取り出すことを試みた。
実験室は廃屋を使い、一時に何十kgという試料を扱う実験は過酷を極めた。
1902年、夫人は120mgの塩化ラジウムを単離し、原子量も測定した。

 1914年、念願だったラジウム研究所が設立されたが、同年、フランスは第1次世界大戦に参戦する。
夫人は、X線装置を搭載したles petites Curieといわれた自動車で娘のイレーヌと前線に出かけて負傷者の検査にあたり、第二の祖国フランスのために献身的に働いた。
夫人は、1934年、66歳で白血病で死去したが、ラジウム研究の際のラドン吸入による内部被ばく、大戦中のX線被ばくがあったことは確かである。

 東京帝国大学助教授、山田延男は、1923~1925年、ラジウム研究所へ留学した。
山田は主に、ポロニウム、後にトリウム、ラジウムをα線源として用い、その飛程分布や長飛程粒子(α粒子衝撃によって放出される陽子など)について研究した。
ポロニウムは体外被ばくは問題とならないが、体内にはいると、エネルギー損失が大きいだけに、生物学的影響が非常に大きい(数百ナノグラムの摂取で死亡する可能性がある)。
山田の仕事は、強力なα線源を作ることから始まり、注意深く、丹念な観測を要するものであったが、当時の放射線防護の知識と技術は充分とは云えず、帰国後、放射線障害のため、31歳で夭折した。

 講演では、キュリー夫人の実験ノート、山田博士のパスポートなどに残る放射能の分布や核種同定について触れる。

キュリー夫人のノート
キュリー夫人のノート
RADIOISOTOPES, Vol.54, No.10, 437-480(2005)
原著:キュリー夫人の実験ノートの放射能 ー明星大学図書館所蔵ー(森 千鶴夫 他)
Fig.1(438), Fig.2(439)

 キュリー夫人の苦難に満ちた、しかし輝かしい生涯は、次女エーヴの著した「キュリー夫人伝」によって伝えられ、全世界の人々に感銘を与えた。
山田延男については、日本でもほとんど無名であったが、最近、フランスの科学史家J.P.Poirierは著書、“Marie Curie-et les conquerants de l′atom 1896-2006-”の中で山田について多くのスペースを割いて彼の人となりや業績について述べている。
われわれも、山田の苦難に満ちた、しかし輝かしい生涯に思いをはせる機会があってよいのではなかろうか。