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第4回 お茶の水女子大学ホームカミングデイ(化学科共同企画)

2010年 5月29日(土)

放射能との遭遇 ―放射化学との出会い―


佐野 博敏
お茶の水女子大学理学部化学科元助教授、東京都立大学元総長、大妻女子大学名誉学長

1.はじめに
 槌田龍太郎著「金属化合物の色と構造」の序文に感銘し進学した東大の木村健二郎研究室で、「金属元素と有機色素の結合の研究」の物理化学的アプローチで学位を頂戴したせいか、お茶の水女子大学物理化学立花太郎研究室の助教授にして戴きました。赴任前の研究テーマは固相のホットアトム化学は放射化学、それと当時始めたばかりのメスバウアー分光学は物性研究が主流ながら、γ線源を扱う点では放射化学の縁続きでした。今ではこれらも、17歳のとき母を捜して原爆の広島市内を5日間歩き続けた放射能との遭遇からの何かの因縁かとも思えます。そこで、放射化学者として、改めて私のヒロシマ体験を回想し、自らの放射化学研究も振り返ってみましょう。

2.広島からヒロシマへ
 現在の高校日本史教科書にも記載のあるように、国家総動員法、国民徴用令、女子挺身隊令、国民動員令と、日本は「根こそぎ動員」の様相や、米穀、砂糖、衣料、マッチまで切符制という厳しい時代に推移し、本土空襲も1945年3月10日約10万人死者の東京大空襲など烈しさを増していました。
 その8月6日(月)朝8:15には国民動員令で12歳以上の中学生など各校生徒、6月公布の義勇隊法で近隣町村から動員の建物疎開作業の人々が集まっていました。天候偵察、原爆投下、被爆状況探査の米3機飛来を「被爆者の描いた絵」は、その後の米国の記録とよく一致して記しています。
 原爆には、核分裂連鎖反応から生ずる放射性核分裂片に加え、非放射性物質を放射化する中性子放出もあり、1次放射能障害に2次放射能障害も続き、莫大な核分裂エネルギーは物質電離に伴う多様な電磁波で、外部火傷のほかマイクロ波による人体の内部加熱や皮膚破裂の火傷をももたらしました。
 平坦な広島中心部に投下の原爆は半径4km範囲のほぼ全市を焼き尽くしました。東京では東西が新宿-両国、南北は巣鴨-浜松町、ほぼ山手線内の広さです。放射能の「黒い雨」はその数倍面積の市と西北郊外に降り影響しました。
 広島西南約40kmの大竹町に工場動員されていた私は、母の探索のため翌未明、船で広島に入りました。そのとき見た背びれを焼かれながら漂っていた鮒は文字通り「泳ぐ焼き魚」です。焼け果てたヒロシマでは、血の滴る火傷の皮膚をぶら下げ避難する被爆者、ただ水を求めて蹲る重傷者、6支流の川面で息絶えた赤い肌の遺体群、到る処に設けられた臨時救護テントに並べられた被爆者は、スライドの絵や写真のとおりです。
 爆心近くの住友銀行支店前の花崗岩の石段には、開店を腰掛けて待っていた人影を残す炭跡と、人体の炭酸カルシウムが融材になり石段と背後の花崗岩が融けた跡がありました。現在も資料館に保存展示されています。
 ご覧の原爆前や2日後の米機の偵察撮影写真から、市内のいくつかの橋の破壊がわかりますが、残った橋も傾いていました。米国は「原子爆弾」投下を直後に世界に公表しましたが、報道管制下のわが国の新聞が「新型爆弾」と報道したのは8日朝刊、「原子爆弾」という報道は8月14日でした。
 画家の丸木伊里氏もヒロシマの被爆を聞いて駆けつけ「原爆の絵」を描き、丸木美術館で見る事ができます。描かれている人体のプロポーションが保たれているのは画家の優しさか、人体画描写の習性だったのでしょうが、私の見た被爆者は標準的な人体ではなく、それらは被爆者の絵に見るとおりです。内部加熱で膨張した丸い顔や胴、爆風の陰圧で飛出した内臓・眼球、焼け縮んだ手足などバランスを失った遺体群でした。
 火傷の肉に産卵した蝿の蛆の蠢きに喘ぎ、熱い体でしきりに水を求める被爆者の声などに、極限状態の私の感覚は対数尺になったまま鈍感、無感動でした。それでも深く心に残ったのは、わが子を抱き、助けようとして力尽きた多くの母と子の遺体です。記念資料館前の本郷新の「嵐の中の母子像」もそれをモチーフとしたものでしょう。現在、母に虐待・殺害される子供の事件を知るにつけ、このヒロシマの母と子の愛情が一層心を打ちます。
 母から離れ動員された12歳生徒たちが焼かれた体を冷やすべく川になだれ込む様を描いた絵、私の出身校「県立広島二中」1学年ほぼ全員約320名の死亡者氏名を刻んだ慰霊碑、川面を埋め尽くし、赤い肌が一部白くなり干満の潮の流れに上下し漂い溢れた姿なども、スライドにご覧のとおりでした。
 3日目頃には、被爆者の描いた絵のように、それら遺体は岸辺に並べられ廃材と重ねて焼かれていました。半焼のまま落ちる手足や首が黙々と火の中に放り込まれます。不完全燃焼の死臭は強烈な筈なのに、私の記憶にはほとんど残らないまま、それを思い出すまでに9年が経過するのです。
 母の夢を見て胸騒ぎした5日目の朝、広島湾を隔てる反対の東側の坂村小学校に重傷の母が収容されていると伝言が近くの寺からあり、半日かけてたずねた小学校は被爆者で一杯でした。母は朝寝していたところを右全半身に多数のガラス片が突き刺さったまま逃げのび、右腕動脈の多量出血止血のため、絶対安静中でした。隣の被爆者がお寺のお嬢さんで、その身内の方から私の居た村に寺から寺の数日かけての伝言を戴いたのでした。
 この重傷と絶対安静が母に幸いしました。その頃から約半年間は2次放射能障害で無傷の人に紫斑が出ての死亡が続き、母を捜す私を励まし連絡救出に奔走した級友の死、町内の人も行方不明の家族を捜し回ったせいか、母以外は町内全滅との報、も後日知らされました。多くの善意の人々の死です。
 放射線障害は個人差も大きく、被爆距離や場所、放射性物質や線量の分布の条件にもよるのか、因果関係証明の難しさは被爆者を長く苦悩させます。
 母は半年後、正常値約7000の白血球数が2000以下になり、被爆距離からは4000mSv以上の被爆が推測され、50%の死亡率のところを生き延びたのは、私が毎日2回、40箇所のツボに灸をすえ続けたからかも知れません。
 母のガラス傷にも、大きくはないがケロイド痕は残りました。火傷の場合は絣の模様が肌に焼き付いたり、広範囲の火傷痕全体がケロイドになり被爆者の苦悩は深かった筈です。他の皮膚を自己移植整形しても再発し、利用皮膚の場所もケロイド化し、落胆を倍加させました。深部への放射線や熱線の影響でしょうか。

3.ビキニ第五福竜丸事件:放射化学への入口
 1954年3月1日のビキニ水爆実験は、第五福竜丸被爆、その後の放射能雨などで木村研究室を巻き込みます。半年後の久保山無線長の死は、忘れていたヒロシマ、ナガサキを広く思い出させましたが、木村研究室での故久保山氏の内臓分析の坩堝での灰化で、微かにドラフトから漏れ出た特異臭が私にも突如9年前のヒロシマの記憶を、しかも実尺で蘇らせた事が忘れられません。翌年、2歳で被爆の佐々木貞子さんの10年後の白血病死も衝撃を与えました。
 他方、当時は入手に予算や時間も要した放射性アイソトープ(RI)が研究室屋上で集めた雨のイオン交換分離で無料で充分以上量が手に入り、放射能に関心も集まり測定機器も普及しました。学位論文を完了した私は、RIや放射化学の新分野に魅せられました。母は放射能というだけで反対でしたが。

4.ホットアトム化学からメスバウアー分光学へ
 東大木村研の助手になって間もなく、木村先生は原子力研究所に移られ、後任の斎藤信房先生が核変換に伴う化学効果(ホットアトム化学)を一つのテーマとされました。助手の私はその面倒を見る立場になり、興味ある研究も出来ましたが、核反応は放射能で追跡できるだけの痕跡量のため、物理化学的計測はできず、加速器や原子炉で核反応させた固体試料は水溶液にして生成放射能原子の分属追跡でしか化学状態を推測できません。ただ、その「推測」への固相物理学の勉強はメスバウアー分光学の理解に役立ちました。
 それはメスバウアー効果が固相原子の振動状態に依存するからですが、放射性核種からの弱いγ線を利用するので、放射化学的知識技術も必要でした。メスバウアー分光法は、γ線を非放射性核に共鳴吸収させ分光学的に化学状態を知る物理化学的手法となる一方、γ線源物質がγ線放出に至る核変換過程の化学効果(ホットアトム化学)を探る放射化学的手段にもなるのです。

5.分子間相互作用と分子内相互作用
 メスバウアー効果観測にはメスバウアー核が無反跳の確率が必要で、当時そのためには分子性結晶でもメスバウアー原子には分子内の強い結合が最重要とされていましたが、固相の広範囲の関与を理解すればむしろ弱い分子間結合の強弱こそがメスバウアー効果に決定的であることを指摘し、反跳γ線の異方性による四極分裂ピーク強度比や全スペクトルピーク強度から、モノマー、1-、2-、3-各次元のポリマーの識別というポリマー効果を見出しました。
 分子間相互作用はピーク強度に反映されるだけではなくて、分子内で原子価平均化が観測される場合は、分子間相互作用の現れ方の異なる事を今野先生らと種々のビフェロセニウム誘導体のFe(II)-Fe(III)の状態で示し、三角鉄脂肪酸錯体誘導体のFe(II)-Fe(III)-Fe(III)でも明らかにできました。分子間の配列が置換基、対イオン、付加溶媒分子などの配列や運動で影響を受けるのです。

6.固相における「核変換に伴う化学効果(ホットアトム化学)」 
 他方、発光メスバウアースペクトルでCo-57がFe-57にEC壊変する際の化学効果は非破壊的に観測でき、これとCo-59が(n,γ)反応でCo-60に変換する際の化学効果(破壊分析)の研究では確認できなかった傾向、核変換が固相内の局所的放射線化学的効果という「推測」が確認できました。
 低スピンCo-57化合物では、EC壊変で生ずる痕跡量の高スピンFe-57化学種であるのに磁気分裂ピークを示さない事から、EC壊変近傍のラジカルや遊離高スピンイオンの発生や存在も発光メスバウアー分光法で実証できました。
 Fe(II)-Fe(III)-Fe(III)三角錯体に対応するCo-57(II)-Fe(III)-Fe(III)三角錯体の発光メスバウアースペクトルで、前者で原子価平均化する誘導体では後者も類似の平均化現象を示すことから、壊変生成したFe-57原子が一部修復された環境でFe(II)-Fe(III)-Fe(III)の原子価平均化挙動を示す不思議さなど、メスバウアー分光法の吸光と発光の双方を関連づけて利用した成果が得られました。

7.「回想のまとめ」として
 原爆で半径4kmが焼尽くされ、一時は75年間草木も生えぬと言われたヒロシマは、被爆アオギリの1世も2世も平和公園で今年も新緑を増し、平和都市として復旧しています。集合体である社会の結びつきが個々の家族や個人に影響を与え支えあうのは、固相内の分子間・分子内相互作用に対比できそうです。核変換はその固相内で局所的騒乱を与え、それが部分的にせよ復元もされる点でヒロシマへの変換とその復旧を思わせますが、核変換での観測の及び難い傷跡のように、隠れた悲惨な犠牲も忘れられてはなりません。このお話がその思いにつながれば幸いです。ご清聴有り難うございました。



講演会のスライド写真の一部は、佐野先生のホームページ(学外サイト)に掲載されています。
佐野先生のホームページ:  http://www1.parkcity.ne.jp/ht-sano/index.html