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「女性科学者の伝統の確立を」

坂井 光夫

保井コノ    黒田チカ

 ここに2枚の写真があります。名前は保井コノ、黒田チカ。明治の終りから、大正、昭和と、3代を駆け抜けた女性科学者の、自然科学におけるパイオニアです。

 皆さん、よく写真を眺めて下さい。何という相貌(かお)でしょう。そこから流れ出る清澄な光。この「かお」になるまでの、女の一生が凝縮されています。彼女たちが研究を始め出した明治の終り、大正の始めは、女に科学が出来るのか、といった、今よりずっと厚い壁があったのです。しかし彼女たちは、立派にこの壁を打ち破ったのです。保井は国産石炭の植物の炭化度の研究、黒田は天然色素の化学構造の決定で、女性理学博士の第1号と第2号になりました。他にも、同じ頃、同様の試練を乗り越え、大成した幾人かのすばらしい女性科学者がいます。私たちは、これらの人々を誇りに思うと同時に、偏見と差別のため志半ばで消えていった数多くの人たちに畏敬の眼差しをそそぐことを忘れてはなりません。

 さて、このようにして生まれた泉から、彼女等の科学に対する夢と情熱の水がこんこんと流れ出し、大きな流れとなって現在の我々の周りを包んでいるのです。これが女性科学者の伝統であります。しかし、わが国では、先進諸国に比べ、伝統の重要性についての認識が少ないように思われます。たとえば、保井コノ、黒田チカなる偉大な人物が女性科学史の源流に存在していたことを、潜在的にしろ自覚するとき、おのずから研究に対する創造的活力が湧き、研究の成果が挙がり、川の流れが拡がってゆく。これが伝統の力なのです。我々は、日本女性科学者の伝統を顕在化させ、市民権を獲得させることが必要です。このことにより、女性科学者の社会的地位と評価が高まると同時に、この伝統の背景のもとに、女子学生の科学への関心が高まり、将来の研究参加につながることになるでしょう。伝統を大切にしない社会に未来は無いのです。

 21世紀には女性科学者の役割は一層大切なものになってくると思われます。一つにはキュリー夫妻のラジウム発見の場合に見られるように、研究を進める上で、女性科学者の役割がいかに大切であるかということです。二つには、今日の科学の現状に関することです。最近の生物科学や情報科学等の分野の急激な技術革新により、今や科学は商業主義や政治と結託し、非人間的科学に急速に堕ちて行っています。女性の中の感性豊かな人達が科学の分野に大量進出することは、この重大な人類の危機に対し有効な抑止力の役割を果たすに違いありません。女性科学者の伝統の確立。この小冊子が少しでもそのお役にたてばと願っています。

(東京大学名誉教授・日仏理工科会会長)