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「黎明期の女性科学者」

坂井 光夫

 今年はマリー・キュリーが夫ピエール・キュリーの協力でラジウムを発見してから百年目に当たります。マリーの波瀾万丈の人生と偉大な業績は幾つかの優れた伝記によりわが国においても広く紹介され、中高生を含めて多くの人に深い感銘を与えて来ました。

 さてしかし、マリーと同時代に、わが国においても偉大な女性科学者達がいたことを、一般市民は、女子学生を含めて、どれだけの人が知っているでしょうか。日本女性科学史をひもといてみましょう。そこには、伝統、社会的環境などの彼我の違いから、当然のことながら、その業績にはいささかの差はありますが、その研究に対する情熱と献身では決してひけをとらない人達が少なからずいたのです。今から約百年前の女性蔑視の甚だしいわが国で新しい学問を始めようとしたのですから、その困難は想像に難くありません。しかし、彼女らは立派にこの困難を克服したのです。

 この小冊子には理学関係の三博士保井コノ、黒田チカ、湯浅年子が取り上げられています。この3人は日本女性科学史の黎明を彩る大輪の花です。しかし他の分野においても、この3人に優るとも劣らない数多くの自然科学者がいます。その草分けはマリー・キュリー(1867-1934)より少し前に生まれた荻野吟子(1851-1913)です。1885年(明治18年)、女性で日本最初の開業医の資格を取得しました。勿論、研究の分野ではありませんが、近代医学を身につけ自立したことは画期的な出来事と言えましょう。このことが契機となり、その後多くの女医が生まれ、1930年には、宮川庚子(1900-1993)が医学博士号を取得し、保井コノ、黒田チカにつぐ、三番目の女性博士となりました。数学では、黒田と一緒に東北帝国大学に入学した金山らく(1888-1977)を嚆矢とし、数学での博士第1号で北海道大学で初めての女性教授になった桂田芳枝(1911-1979)がいます。桂田は海外で知名度の高い国際的な数学者です。農学では、1932年に辻村みちよ(1888-1969)が農学博士第1号となり、1937年には、鈴木ひでる(1888-1944)が初の薬学博士の学位を取得しました。

 眼を閉じると、これらの人々が苦労して作り上げた、遥か彼方の灯台からの光が時空を越えておぼろげながら見えてきます。今やそれは遠く隔たり、ともすれば、気が付かないほどです。私達は光の増幅器を仕掛けて明るさを取り戻し、次の世代に科学への道を照らすようにしなければなりません。しかし、我々の周りには差別、偏見、羨望などの光の吸収装置があります。少数派である女性科学者は、お互いに協力して、これらの装置を取り除ぞかなければなりません。人間は平等であり、誰もが自由に研究する権利があります。清浄な空間に増幅された光がみなぎる時、女性が、女性が、と肩を張らなくても、楽しく研究できる時代が来るでしょう。そして、女性の科学を通しての人類への貢献は、飛躍的に高まることは間違いありません。

(文責 坂井 光夫)