「保井 コノ」 ―日本の大学初の女性博士となった植物学者―
三木 寿子
 女高師在学中の保井(右)と友人(1901年)
保井コノは1880年(明治13年)香川県に生まれた。18歳で香川県師範学校を卒業、直ちに上京して女子高等師範学校理科に入学した。同校が文科、理科を分けて募集した最初の入学生18名中の1人であった。卒業して女学校の教師を3年勤めた後、1905年、保井25歳の時、女高師に初めて設けられた研究科に最初のただ1人の理科研究生として入学し、シジミの研究者として知られた岩川友太郎教授のもとで動植物学を専攻することになった。その研究科1年のときに発表した「鯉のウェーベル氏器官について」は、『動物学雑誌』に掲載された女性科学者最初の論文であった。次いでヒルの研究を勧められたが、ヒルは大嫌いとそれを断り、自分でさんしょうもの原葉体を調べて『植物学雑誌』(1909)に発表。それが東京帝国大学農学部三宅驥一教授の目に留まり、同教授から細胞学の指導を受けたり、ミクロトームを借りて切片をつくったりして研究を進め、1911年に同教授の勧めで“Annals
of Botany”にその成果を発表した。それは外国の専門誌に載った日本女性初の論文であった。
こうして女性科学者として、全てのことに日本で“最初の”という形容詞が冠せられる先駆者の道を歩み始めたのであるが、それは現代からは思いもよらないような茨の道でもあった。たとえば女高師卒業後恩師の勧めによって編纂した高等女学校用の物理教科書は‘女子がこういうものを書くはずがない’と却下されてしまった。また女高師研究科を終えて同校助教授になり、内外で認められる仕事をしていたにもかかわらず、女高師から出された外国留学生としての在外研究の願いは‘女子が科学をやってもものになるまい’と、文部省が許可をなかなか下ろさなかった。そして留学の条件に“理科研究”の他に“家事研究”の言葉を加えさせられ、結婚をしないで生涯研究を続けるという暗黙の制約まであったという。
1914年(大正3年)渡米が実現して、ハーバード大学のジェフレー教授のもとで、植物組織研究の新しいテクニックを学び、石炭の研究を始めた。帰国後の石炭研究は、研究費の点で女高師では不可能であったが、東京帝国大学植物学の藤井健次郎教授や女高師校長中川謙次郎教授の尽力で、東大遺伝学講座の嘱託となり、学生実験を担当しながら、10年間にわたって東大で続けられた。日本各地の石炭を、自らモッコに乗って炭坑のたて穴深く降りて採集し、全く新しい方法で綿密な検討を重ねて、炭化度による石炭植物の構造変化を明らかにしていった。それは他の追随を許さない、新しいすぐれた研究であったというが、それが学位論文「日本産石炭の植物学的研究」となって、1927年(昭和2年)日本の大学初の女性博士が誕生した。
1929年、上記の藤井教授が主幹となって細胞学雑誌『キトロギア』が創刊され、保井は庶務・会計を引き受け、やがて他の同人とともに編集や印刷指図までも行って、世界的雑誌に育てることに大きく貢献した。
東大での研究と平行して、東京女高師では、細胞学、遺伝学の研究にとりくみ、比較発生学、比較形態学へ、さらにそれらの集大成となる進化の問題、種の変位の問題、そして系統の研究へと進めていった。第一次、第二次と2度の世界戦争を含むきびしい社会情勢の中で、黙々として研究に立ち向かって業績を挙げ続け、その論文は1957年(77歳)までに99編に及んだ。女高師の生物学教官として保井を知る大槻虎男教授は、保井の業績について「質・量共に世界一流の学者のそれであり、女性として世界にも稀な研究者の1人であった」と云っている。
東京女高師、お茶の水女子大学では、講義や学生指導に、あくまでも女子としての扱いを排してきびしく接し、一方では後進の指導には大きな気配りを示していた。また戦後の教育改革に際しては、女子教育の進歩のために女子国立大学の発足を目指して、積極的に議論し、行動した。1953年には、保井と黒田チカのお茶の水女子大学退官を記念し、自然科学の研究を奨励することを目的として保井・黒田奨学基金が設けられた。
保井の業績に対して1955年、女性第1号の紫綬褒章が贈られた。そうした折り「何か辛いことがありましたか」と訊いても、「皆さんがよくして下さったから、何も困らなかった」という答しか返ってこなかった。
後続の女性科学者の1人で、女高師の学生時代から保井を師と仰ぎ、保井に女性科学者の一つの理想像を見ていた物理学の湯浅年子は、「自分に対しても、他に対しても、少しの虚構も許さず、きびしく研究に向き合った」保井の、「あらゆる困難に黙々として打ち克ちながら、ひたすら進まれた道は、後から行くものにとって一つの高い道標になるであろう」と書いた。
(元神奈川歯科大学教授)
保井コノ博士 年譜 年(M:明治,T:大正,S:昭和) |
1880(M.13) | 2月16日,香川県大川郡三本松村(現大内町三本松)で生まれる. |
1898(M.31) | 香川県師範学校卒業,女子高等師範学校理科入学.(18歳) |
1902(M.35) | 同校理科卒業,岐阜高等女学校教諭. |
1904(M.37) | 神田共立女学校教諭. |
1905(M.38) | 女子高等師範学校研究科入学.(25歳) 論文[鯉のウェーベル氏器官について]発表. |
1906(M.39) | 植物学とくに細胞学の研究に移り,さんしょうもの原葉体の研究開始. |
1907(M.40) | 女子高等師範学校研究科修了,同校助教授.(27歳) |
1913(T. 2) | 文部省外国留学生としてドイツおよびアメリカに在外研究を命じられる. |
1914(T. 3) | アメリカに留学,シカゴ大学で細胞学的研究開始.(34歳) かき(柿)について研究発表.
【8月,第一次世界大戦勃発,ドイツ行きは断念させられる】 |
1915(T. 4) | ハーバード大学のジェフレー教授に師事して石炭の研究開始. |
1916(T. 5) | 6月帰国.東京帝国大学,藤井健次郎教授のもとで石炭の研究(1927頃まで). 平行して東京女子高等師範学校で細胞学,遺伝学の研究開始.(36歳) |
1918(T. 7) | 東京帝国大学理学部遺伝学講座嘱託(実験指導,1939年まで). |
1919(T. 8) | 東京女子高等師範学校教授.(39歳) |
1924(T.13) | とうもろこし,ひなげし,むらさきつゆくさ等を対象とする遺伝学の研究に取り組み始める. |
1927(S. 2) | 理学博士.学位論文[日本産の亜炭,褐炭,瀝青炭の構造について].(47歳) 日本の大学で最初の女性博士の誕生であった. |
1929(S. 4) | 細胞学雑誌『キトロギア』が創刊され,庶務・会計・編集を担当,以後世界的雑誌に育てることに貢献した. |
1936(S.11) | この頃から細胞学の分野にも精力的に取り組む. |
1945(S.20) | 原爆被曝植物の調査研究を始める. |
1949(S.24) | お茶の水女子大学発足,同大学教授.(69歳) |
1952(S.27) | お茶の水女子大学退官,同大学名誉教授.(72歳) 『キトロギア』の正編集者になる. |
1955(S.30) | 紫綬褒章受賞.(75歳) |
1962(S.37) | 9月,バス停で倒れ,病床につく. |
1965(S.40) | 勲三等宝冠章受賞.(85歳) |
1971(S.46) | 3月24日,東京都文京区向丘の自宅で逝去.享年91歳. 従三位に叙せられる. |
|
 |