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2020年2月4日更新
ここに2枚の写真があります。名前は保井コノ、黒田チカ。明治の終りから、大正、昭和と、3代を駆け抜けた女性科学者の、自然科学におけるパイオニアです。
皆さん、よく写真を眺めて下さい。何という相貌(かお)でしょう。そこから流れ出る清澄な光。この「かお」になるまでの、女の一生が凝縮されています。彼女たちが研究を始め出した明治の終り、大正の始めは、女に科学が出来るのか、といった、今よりずっと厚い壁があったのです。しかし彼女たちは、立派にこの壁を打ち破ったのです。保井は国産石炭の植物の炭化度の研究、黒田は天然色素の化学構造の決定で、女性理学博士の第1号と第2号になりました。他にも、同じ頃、同様の試練を乗り越え、大成した幾人かのすばらしい女性科学者がいます。私たちは、これらの人々を誇りに思うと同時に、偏見と差別のため志半ばで消えていった数多くの人たちに畏敬の眼差しをそそぐことを忘れてはなりません
さて、このようにして生まれた泉から、彼女等の科学に対する夢と情熱の水がこんこんと流れ出し、大きな流れとなって現在の我々の周りを包んでいるのです。これが女性科学者の伝統であります。しかし、わが国では、先進諸国に比べ、伝統の重要性についての認識が少ないように思われます。たとえば、保井コノ、黒田チカなる偉大な人物が女性科学史の源流に存在していたことを、潜在的にしろ自覚するとき、おのずから研究に対する創造的活力が湧き、研究の成果が挙がり、川の流れが拡がってゆく。これが伝統の力なのです。我々は、日本女性科学者の伝統を顕在化させ、市民権を獲得させることが必要です。このことにより、女性科学者の社会的地位と評価が高まると同時に、この伝統の背景のもとに、女子学生の科学への関心が高まり、将来の研究参加につながることになるでしょう。伝統を大切にしない社会に未来は無いのです。
21世紀には女性科学者の役割は一層大切なものになってくると思われます。一つにはキュリー夫妻のラジウム発見の場合に見られるように、研究を進める上で、女性科学者の役割がいかに大切であるかということです。二つには、今日の科学の現状に関することです。最近の生物科学や情報科学等の分野の急激な技術革新により、今や科学は商業主義や政治と結託し、非人間的科学に急速に堕ちて行っています。女性の中の感性豊かな人達が科学の分野に大量進出することは、この重大な人類の危機に対し有効な抑止力の役割を果たすに違いありません。女性科学者の伝統の確立。この小冊子が少しでもそのお役にたてばと願っています。
坂井 光夫(東京大学名誉教授・日仏理工科会会長)
今年はマリー・キュリーが夫ピエール・キュリーの協力でラジウムを発見してから百年目に当たります。マリーの波瀾万丈の人生と偉大な業績は幾つかの優れた伝記によりわが国においても広く紹介され、中高生を含めて多くの人に深い感銘を与えて来ました。
さてしかし、マリーと同時代に、わが国においても偉大な女性科学者達がいたことを、一般市民は、女子学生を含めて、どれだけの人が知っているでしょうか。日本女性科学史をひもといてみましょう。そこには、伝統、社会的環境などの彼我の違いから、当然のことながら、その業績にはいささかの差はありますが、その研究に対する情熱と献身では決してひけをとらない人達が少なからずいたのです。今から約百年前の女性蔑視の甚だしいわが国で新しい学問を始めようとしたのですから、その困難は想像に難くありません。しかし、彼女らは立派にこの困難を克服したのです。
この小冊子には理学関係の三博士保井コノ、黒田チカ、湯浅年子が取り上げられています。この3人は日本女性科学史の黎明を彩る大輪の花です。しかし他の分野においても、この3人に優るとも劣らない数多くの自然科学者がいます。その草分けはマリー・キュリー(1867-1934)より少し前に生まれた荻野吟子(1851-1913)です。1885年(明治18年)、女性で日本最初の開業医の資格を取得しました。勿論、研究の分野ではありませんが、近代医学を身につけ自立したことは画期的な出来事と言えましょう。このことが契機となり、その後多くの女医が生まれ、1930年には、宮川庚子(1900-1993)が医学博士号を取得し、保井コノ、黒田チカにつぐ、三番目の女性博士となりました。数学では、黒田と一緒に東北帝国大学に入学した金山らく(1888-1977)を嚆矢とし、数学での博士第1号で北海道大学で初めての女性教授になった桂田芳枝(1911-1979)がいます。桂田は海外で知名度の高い国際的な数学者です。農学では、1932年に辻村みちよ(1888-1969)が農学博士第1号となり、1937年には、鈴木ひでる(1888-1944)が初の薬学博士の学位を取得しました。
眼を閉じると、これらの人々が苦労して作り上げた、遥か彼方の灯台からの光が時空を越えておぼろげながら見えてきます。今やそれは遠く隔たり、ともすれば、気が付かないほどです。私達は光の増幅器を仕掛けて明るさを取り戻し、次の世代に科学への道を照らすようにしなければなりません。しかし、我々の周りには差別、偏見、羨望などの光の吸収装置があります。少数派である女性科学者は、お互いに協力して、これらの装置を取り除ぞかなければなりません。人間は平等であり、誰もが自由に研究する権利があります。清浄な空間に増幅された光がみなぎる時、女性が、女性が、と肩を張らなくても、楽しく研究できる時代が来るでしょう。そして、女性の科学を通しての人類への貢献は、飛躍的に高まることは間違いありません。
(文責 坂井 光夫)
女高師在学中の保井(右)と友人(1901年)
保井コノは1880年(明治13年)香川県に生まれた。18歳で香川県師範学校を卒業、直ちに上京して女子高等師範学校理科に入学した。同校が文科、理科を分けて募集した最初の入学生18名中の1人であった。卒業して女学校の教師を3年勤めた後、1905年、保井25歳の時、女高師に初めて設けられた研究科に最初のただ1人の理科研究生として入学し、シジミの研究者として知られた岩川友太郎教授のもとで動植物学を専攻することになった。その研究科1年のときに発表した「鯉のウェーベル氏器官について」は、『動物学雑誌』に掲載された女性科学者最初の論文であった。次いでヒルの研究を勧められたが、ヒルは大嫌いとそれを断り、自分でさんしょうもの原葉体を調べて『植物学雑誌』(1909)に発表。それが東京帝国大学農学部三宅驥一教授の目に留まり、同教授から細胞学の指導を受けたり、ミクロトームを借りて切片をつくったりして研究を進め、1911年に同教授の勧めで“Annals of Botany”にその成果を発表した。それは外国の専門誌に載った日本女性初の論文であった。
こうして女性科学者として、全てのことに日本で“最初の”という形容詞が冠せられる先駆者の道を歩み始めたのであるが、それは現代からは思いもよらないような茨の道でもあった。たとえば女高師卒業後恩師の勧めによって編纂した高等女学校用の物理教科書は‘女子がこういうものを書くはずがない’と却下されてしまった。また女高師研究科を終えて同校助教授になり、内外で認められる仕事をしていたにもかかわらず、女高師から出された外国留学生としての在外研究の願いは‘女子が科学をやってもものになるまい’と、文部省が許可をなかなか下ろさなかった。そして留学の条件に“理科研究”の他に“家事研究”の言葉を加えさせられ、結婚をしないで生涯研究を続けるという暗黙の制約まであったという。
1914年(大正3年)渡米が実現して、ハーバード大学のジェフレー教授のもとで、植物組織研究の新しいテクニックを学び、石炭の研究を始めた。帰国後の石炭研究は、研究費の点で女高師では不可能であったが、東京帝国大学植物学の藤井健次郎教授や女高師校長中川謙次郎教授の尽力で、東大遺伝学講座の嘱託となり、学生実験を担当しながら、10年間にわたって東大で続けられた。日本各地の石炭を、自らモッコに乗って炭坑のたて穴深く降りて採集し、全く新しい方法で綿密な検討を重ねて、炭化度による石炭植物の構造変化を明らかにしていった。それは他の追随を許さない、新しいすぐれた研究であったというが、それが学位論文「日本産石炭の植物学的研究」となって、1927年(昭和2年)日本の大学初の女性博士が誕生した。
1929年、上記の藤井教授が主幹となって細胞学雑誌『キトロギア』が創刊され、保井は庶務・会計を引き受け、やがて他の同人とともに編集や印刷指図までも行って、世界的雑誌に育てることに大きく貢献した。
東大での研究と平行して、東京女高師では、細胞学、遺伝学の研究にとりくみ、比較発生学、比較形態学へ、さらにそれらの集大成となる進化の問題、種の変位の問題、そして系統の研究へと進めていった。第一次、第二次と2度の世界戦争を含むきびしい社会情勢の中で、黙々として研究に立ち向かって業績を挙げ続け、その論文は1957年(77歳)までに99編に及んだ。女高師の生物学教官として保井を知る大槻虎男教授は、保井の業績について「質・量共に世界一流の学者のそれであり、女性として世界にも稀な研究者の1人であった」と云っている。
東京女高師、お茶の水女子大学では、講義や学生指導に、あくまでも女子としての扱いを排してきびしく接し、一方では後進の指導には大きな気配りを示していた。また戦後の教育改革に際しては、女子教育の進歩のために女子国立大学の発足を目指して、積極的に議論し、行動した。1953年には、保井と黒田チカのお茶の水女子大学退官を記念し、自然科学の研究を奨励することを目的として保井・黒田奨学基金が設けられた。
保井の業績に対して1955年、女性第1号の紫綬褒章が贈られた。そうした折り「何か辛いことがありましたか」と訊いても、「皆さんがよくして下さったから、何も困らなかった」という答しか返ってこなかった。
後続の女性科学者の1人で、女高師の学生時代から保井を師と仰ぎ、保井に女性科学者の一つの理想像を見ていた物理学の湯浅年子は、「自分に対しても、他に対しても、少しの虚構も許さず、きびしく研究に向き合った」保井の、「あらゆる困難に黙々として打ち克ちながら、ひたすら進まれた道は、後から行くものにとって一つの高い道標になるであろう」と書いた。
三木 寿子(元神奈川歯科大学教授)
保井コノ博士 年譜 年(M:明治,T:大正,S:昭和) |
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1880(M.13) | 2月16日,香川県大川郡三本松村(現大内町三本松)で生まれる. |
1898(M.31) | 香川県師範学校卒業,女子高等師範学校理科入学.(18歳) |
1902(M.35) | 同校理科卒業,岐阜高等女学校教諭. |
1904(M.37) | 神田共立女学校教諭. |
1905(M.38) | 女子高等師範学校研究科入学.(25歳) 論文[鯉のウェーベル氏器官について]発表. |
1906(M.39) | 植物学とくに細胞学の研究に移り,さんしょうもの原葉体の研究開始. |
1907(M.40) | 女子高等師範学校研究科修了,同校助教授.(27歳) |
1913(T. 2) | 文部省外国留学生としてドイツおよびアメリカに在外研究を命じられる. |
1914(T. 3) | アメリカに留学,シカゴ大学で細胞学的研究開始.(34歳) かき(柿)について研究発表. 【8月,第一次世界大戦勃発,ドイツ行きは断念させられる】 |
1915(T. 4) | ハーバード大学のジェフレー教授に師事して石炭の研究開始. |
1916(T. 5) | 6月帰国.東京帝国大学,藤井健次郎教授のもとで石炭の研究(1927頃まで). 平行して東京女子高等師範学校で細胞学,遺伝学の研究開始.(36歳) |
1918(T. 7) | 東京帝国大学理学部遺伝学講座嘱託(実験指導,1939年まで). |
1919(T. 8) | 東京女子高等師範学校教授.(39歳) |
1924(T.13) | とうもろこし,ひなげし,むらさきつゆくさ等を対象とする遺伝学の研究に取り組み始める. |
1927(S. 2) | 理学博士.学位論文[日本産の亜炭,褐炭,瀝青炭の構造について].(47歳) 日本の大学で最初の女性博士の誕生であった. |
1929(S. 4) | 細胞学雑誌『キトロギア』が創刊され,庶務・会計・編集を担当,以後世界的雑誌に育てることに貢献した. |
1936(S.11) | この頃から細胞学の分野にも精力的に取り組む. |
1945(S.20) | 原爆被曝植物の調査研究を始める. |
1949(S.24) | お茶の水女子大学発足,同大学教授.(69歳) |
1952(S.27) | お茶の水女子大学退官,同大学名誉教授.(72歳) 『キトロギア』の正編集者になる. |
1955(S.30) | 紫綬褒章受賞.(75歳) |
1962(S.37) | 9月,バス停で倒れ,病床につく. |
1965(S.40) | 勲三等宝冠章受賞.(85歳) |
1971(S.46) | 3月24日,東京都文京区向丘の自宅で逝去.享年91歳. 従三位に叙せられる. |
理化学研究所で(1924年)
黒田チカは1884年(明治17年)、マリー・キュリーにおくれること17年に九州佐賀に生まれた。日本の最初の女性化学者であり、また日本の帝国大学に初めて入学した初の女性理学士3名中の1人である。その生涯のほぼ50年は、洋の東西に分かれていたが、キュリー夫人とほぼ同時代に生き、研究分野は異なったがそれぞれに優れた業績を挙げた。
黒田チカの歩んだ道は、明治、大正、昭和の第二次世界大戦前と、わが国の女性の社会的地位も権利もほとんど認められなかった時代にありながら実に堂々と輝かしいものであり、男女の別を越えてその後に続く化学を志す者の先達となったのである。
黒田は、明治初年においてすでに「これからは女子にも学問が必要である」との意見を持つ進歩的な父のもとに育ち、17歳で佐賀師範学校を卒業して、1年間の義務奉職の後、当時の女子にとっては最高の学校であった東京の女子高等師範学校に進学した。黒田は文系、理系どちらの勉強も好きであったが、理科の実験は学校でなければ出来ないからと考えて理科を受験し合格した。卒業の頃には化学が一番好きになりもっと進学して深く勉強したかったが、その頃帝国大学は女子に門戸を閉ざしていてどうすることも出来なかった。それから7年後の1913年に、東北帝国大学が女子にも門戸を開いた。すでに女高師の助教授をしていた黒田は母校の先生方の励ましと推薦を受け、新しい出発に向け同年6月に、東北帝国大学理科大学化学科の受験へと仙台に旅立った。
40名以上の受験者の中で黒田を含めて女子2名と11名の男子が合格した。日本で最初の女子帝大生が誕生した。黒田は29歳であった。
東北帝大での真島利行教授との出会いは、その後の化学者としての黒田の生涯に決定的な影響を与えた。教授の専門分野の有機化学に黒田は最も興味を持ち、3年生の卒業研究を教授の指導のもとで行なうことにした。研究題目について教授から希望を尋ねられたとき、黒田は天然色素の構造について研究したいと答えた。教授はすでに材料を持っていた紫根に含まれる色素が結晶として取り出せたらテーマにしようと言い、黒田は1週間程で結晶化を成功させた。こうして黒田の天然色素の研究が始まった。
このテーマは他の研究者も手がけていたが純粋な結晶は得られていなかったのである。黒田自身も結晶化に何度も失敗したが、その中で様々な化学の研究方法を学び、新しい方法を自ら工夫して多くの結晶を得ることが出来た。この結晶を使って紫根の色素の構造を明らかにする研究は、黒田の限りない努力と情熱に支えられ、様々な化学反応と分析を繰り返しその結果を総合的に考察して進められ、2年後にはシコニンと命名した色素の構造を世界に先駆けて論文に発表した。
1918年に東京化学会で口頭発表したが、初の女性理学士の発表と世間が大騒ぎした。1921年(大正10年)から2年間は文部省外国留学生として英国のオックスフォード大学W.H.パーキン教授のもとに在外研究のため留学した。この時の文部省の辞令には、保井コノの場合と同様に、理科研究に併せて家事研究とあった。
英国から帰国後は、女高師の授業の時間を除いては、新設の理化学研究所の恩師真島教授の研究室で紅花の色素の構造研究を始めた。すでに西欧や日本の化学者が手を付けながら進展はしていなかったテーマである。ほぼ5年にわたる紅との苦闘の末、1929年に黒田はカーサミンの構造を決定し論文に発表した。彼女に先立って結晶まで得ながら結果を出せなかった先輩化学者は、黒田の限りない熱心さと研究手段の優秀さを賞賛してその成功を讃えた。この論文で黒田は理学博士の学位を得た。女高師の4年先輩である保井コノに続く女性理学博士第2号であり、紅の博士と呼ばれた。シコニン、カーサミンとその後に行なった様々な天然色素の研究に対して1959年には紫綬褒章が、1965年には勲三等宝冠章が贈られた。黒田チカの名は、自然科学研究を志す女子学生のシンボルとして継承され、お茶の水女子大学保井・黒田奨学基金の他に、現在東北大学理学部では黒田チカ賞の創設が企画されているという。
黒田は多くのよき師に恵まれた。これは黒田の優れた才能と温和で寛容な人柄によるものであろう。東北帝大受験に旅立つ黒田に、長井長義博士は「化学は物質を対象としているか物質に親しまなければならない。あなたはその資格があるから大丈夫」と励まし勇気づけた。黒田はこの言葉に深く感謝し終生心の支えとして女性化学者の道を歩み続けた。その絶えざる精進の軌跡と輝かしい業績は後進に無言の教えを示している。
前田 侯子(お茶の水女子大学名誉教授)
黒田チカ博士 年譜 年(M:明治,T:大正,S:昭和) |
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1884(M.17) | 3月24日,佐賀県佐賀郡松原町(現佐賀市松原)で生まれる. |
1901(M.34) | 佐賀師範学校女子部卒業,小学校に義務として1年間勤務. |
1902(M.35) | 女子高等師範学校理科入学.(18歳) |
1906(M.39) | 同校理科卒業,福井師範学校教諭. |
1907(M.40) | 女子高等師範学校研究科入学.(23歳) |
1909(M.42) | 同研究科修了.東京女子高等師範学校助教授. |
1913(T. 2) | 東北帝国大学理科大学化学科入学,日本初の帝国大学女子学生となる.(29歳) |
1916(T. 5) | 真島利行教授のもとで紫根の色素の研究に着手,天然色素研究の出発点となった. 9月,東北帝国大学化学科卒業,日本女性初の理学士となる.同大学副手.(32歳) |
1918(T. 7) | 9月,東京女子高等師範学校教授. 11月,東京化学会で[紫根の色素について] 発表,同学会初の女性の研究発表であった.(34歳) |
1921(T.10) | 文部省外国留学生として在外研究のため渡英,オックスフォード大学W.H.パーキン教授に師事してフタロン酸誘導体を研究.(37歳) |
1923(T.12) | 8月,アメリカ経由で帰国,関東大震災により,女高師での研究は不可能となる. |
1924(T.13) | 理化学研究所嘱託(真島研究室)となり,紅の色素の構造について研究開始.以後研究活動は理研で行われることになる. |
1929(S. 4) | 理学博士.学位論文[紅花の色素カーサミンの構造決定]. 保井コノ博士に次ぐ2番目の女性博士となった.(45歳) この頃よりつゆくさの青い花汁,茄子の皮,黒豆の皮,しその葉等の色素の研究に相次いで取り組む. |
1936(S.11) | 日本化学会より第1回真島賞を受ける.(52歳) |
1938(S.13) | ナフトキノン誘導体(紫根の色素シコニンを含む)に関する研究開始. |
1939(S.14) | ウニの棘の色素(ナフトキノン系)の研究,(協同研究者とともに1964年頃まで続けられた). |
1949(S.24) | お茶の水女子大学発足,同大学教授.(65歳) 玉葱の皮の色素の研究を開始し,ケルセチンの結晶をとり出すことに成功,それは高血圧治療剤[ケルチンC]として1952年に実用化,工業化された. |
1952(S.27) | お茶の水女子大学退官,同大学名誉教授.(68歳) 同大学非常勤講師(1963年まで) |
1959(S.34) | 紫綬褒章受賞.(75歳) |
1965(S.40) | 勲三等宝冠章受賞.(81歳) |
1967(S.42) | 1月頃から心臓を病み,東京,次いで福岡の病院で療養生活に入る. |
1968(S.43) | 11月8日,福岡で逝去.享年84歳.従三位に叙せられる. |
パリの宿舎の屋上で(1943年)
湯浅年子は1909年(明治42年)東京に生まれた。少女時代から、自然現象に美や不思議を鋭く感じとって、やがて自然の窮極の姿を探る道を選ぶに到った。東京女子高等師範学校理科から東京文理科大学物理学科に進み、1934年同校を卒業して物理学研究の道に踏み出したが、男女差別はなお著しく、望むような研究の場を得ることは難しかった。その頃、フランスではジョリオ=キュリー夫妻が人工放射能を発見、その論文に感動して、キュリー夫人ゆかりの研究所で原子核研究に進む決意をする。
欧州戦争が始まった半年後の1940年早春、到着したパリは戒厳令下にあって、外国人は研究所に入れないという厳しい状況に直面する。必至に訴えた研究への熱意を汲んで、コレージュ・ド・フランスに迎え入れてくれたのがジョリオ=キュリー教授(キュリー夫人の女婿にあたる)であった。研究所では、戦争にも国籍にも関係なく、また男女の別もなく、通じ合える科学者の心を知った。
パリは程なくドイツ軍に占領され,ナチスの監視下という異常な状況のもと、研究生活にも異常な困難を強いられるが、研究への強い執念でそれを克服して行った。ジョリオ教授の指導のもとに、ウィルソン霧箱を用い、人工放射性核よりのα線やβ線の飛跡を解析して、崩壊の仕組みやエネルギー構造を研究した。霧箱を用いての人工放射性核の研究は当時日本を含む世界各地で行われていた最先端の研究であった。湯浅の,β線のエネルギースペクトルを解析して崩壊を起こす相互作用の型を決める研究は高く評価され、論文[人工放射性核から放出されたβ線連続スペクトルの研究]によって、1943年、フランス国家学位(理学博士)の学位を取得した。
この間に戦局は世界戦争に発展し、英・米・仏の敵国側となった日本人はやがてベルリンに強制的に移され、一旦は研究の自由を奪われてしまう。しかし「研究をしたい」という一念はドイツ科学者を動かし、信頼関係を得て、空襲によって崩れ行く研究所でβ線分光器を作成。その完成直後ベルリンが陥落して、終戦直前に帰国、東京女高師教授に復帰した。器械はリュックサックに入れて持ち帰ったが、米占領軍の原子核研究禁止令によって、実験は阻まれてしまう。そして帰国から3年半後の1949年、ジョリオ教授の招聘によって再渡仏。以後フランスに留まり、1955年にはお茶の水女子大学を退職、フランス国立中央科学研究所所属の研究員として、フランスでゆるぎない地歩を固めて行った。
再渡仏後の研究は、種々の核種のβ崩壊から始めて、1960年頃にはシンクロサイクロトロンを使う原子核反応に移行した。パリ近郊オルセーのパリ大学原子核研究所の重要なメンバーの1人として、つねに先端的問題に挑戦し続けたが、そのためには、マシンタイム、研究費、人員の確保等々、心労も並大抵ではなかった。1970年頃からは、核子の3~4体散乱を解析して3体力の有無を検証しようという、非常に難しい少数核子系の問題に立ち向かっていった。研究成果は注目され、世界各地で開かれる原子核国際会議に幾たびか招待講演を要請されるなど、国際的に活躍した。1967年と1977年の東京での原子核国際会議にも招待講演や司会をつとめたが、帰国したのは、その2回の会議に際してのそれぞれ2ヶ月だけであった。
祖国を離れていてもその研究環境に思いを寄せ、1967年頃から若手研究者を2、3年の任期でオルセーに継続的に招聘して実験に参加させるとともに、研究者間の日仏交流に力を注ぐことも忘れなかった。とくに少数核子系研究に対しては、日仏共同研究プロジェクトを提案し、その実現に強い執念を見せて、病を押して努力を重ねていた。1980年早春、その実施決定の報を臨終の床で聞き、超人的ともいえる活動の、70年の生涯を閉じた。1年後、日仏共同研究はオルセーで実施され、論文の最後に感謝の言葉が湯浅に捧げられた。
湯浅の活動は研究室の中に留まらなかった。文化人の交流、フランス文化の紹介、渡仏邦人の世話等、多岐にわたってなされた 独自の日仏文化交流は、多くの人に忘れられない印象と感謝を遺した。女性科学者の問題に対しても、研究環境の改善に、地位の向上に、積極的に取り組み、戦後の学制改革に際しては、女子帝国大学設立に向けて、保井コノ、阿武喜美子、その他の理科系教官と熱のこもった議論を繰り返し、積極的に行動した。そして、わずかの帰国期間の活動は云うに及ばず、フランスにあってもそれらの問題に絶えず強い関心を寄せ続けていた。その活動に勇気づけられ、励まされて、多くの後輩達が科学の道へ志したが、それぞれの道程に心を配り、手をさしのべることを惜しまなかった。また科学と人生、フランスの学術や芸術、科学と宗教、等々に対して独自の省察を深め、『パリ随想』3部作を始めとする著書や多くの寄稿に、それらをを流麗な文章で語った。思いやり深く人間味豊か、しかし納得できないことは、徹底的に考え、議論し、妥協することがなかった。そして、きびしい内省を重ねつつ、ひたすら誠実にと誓いつつ、自らの道を歩み続けた一生であった。
山崎 美和恵(埼玉大学名誉教授)
湯浅年子博士 年譜 年(M:明治,T:大正,S:昭和) |
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1909(M.42) | 12月11日,東京下谷区桜木町(現台東区上野桜木)で生まれる. |
1927(S. 2) | 東京女子高等師範学校理科入学. |
1931(S. 6) | 同校理科卒業,東京文理科大学物理学科入学.(21歳) |
1934(S. 9) | 東京文理科大学卒業,同大学物理学科副手(嘱託).原子核分光学研究開始. |
1935(S.10) | 東京文理大退職,東京女子大学講師(1937年まで). |
1938(S.13) | 東京女子高等師範学校助教授. フランス政府給費留学生試験に合格.(28歳) |
1940(S.15) | 1月,神戸港出航.3月,パリ到着.(30歳) 【パリは欧州戦の戒厳令下にあった】 4月,コレージュ・ド・フランス原子核化学研究所 F.ジョリオ=キュリー教授のもとで原子核研究開始. 【パリは6月よりドイツ軍占領下におかれた】 |
1943(S.18) | 12月,仏国理学博士の学位取得. 学位論文[人工放射性核から放出されたβ線連続スペクトルの研究]. (33歳) |
1944(S.19) | 8月,英米軍パリ進攻により,ベルリンに避難させられる. 12月,ベルリン大学付属第1物理研究所ゲルツェン教授のもとで研究開始. |
1945(S.20) | 4月,β線スペクトル測定用の2重焦点型分光器を完成. 【5月ベルリン陥落】 5月,シベリヤ経由で帰国の途へ,6月末,敦賀上陸. 10月,東京女子高等師範学校教授. 【米占領軍により原子核実験研究禁止令】 |
1946(S.21) | 理化学研究所仁科研究室嘱託(1949年まで). |
1948(S.23) | 12月,京都大学化学研究所兼任講師嘱託(1949年まで). |
1949(S.24) | 2月,再渡仏.5月,コレージュ・ド・フランス原子核化学研究所でCNRS(国立中央科学研究所)研究員として研究開始(主として原子核分光学の研究).(39歳) |
1952(S.27) | 3月,お茶の水女子大学教授(東京女高師廃止). 4月,お茶の水女子大学休職. CNRS専任研究員.(42歳) |
1955(S.30) | 9月,お茶の水女子大学退職. |
1957(S.32) | CNRS主任研究員(パリ大学原子核研究所,オルセー).(47歳) |
1962(S.37) | 理学博士(日本,京都大学).学位論文 [6Heのβ崩壊に対するガモフeラー不変相互作用の型について]. この頃より中エネルギー領域の核反応の研究に移る. |
1967(S.42) | 8月‐10月,原子核国際会議(東京)のため帰国.(57歳) |
1973(S.48) | 5月,胃と胆嚢の摘出手術を受ける.(63歳) |
1974(S.49) | 12月,定年によりCNRS退職,ただし研究員として研究活動続行. |
1975(S.50) | CNRS名誉研究員.(65歳) |
1976(S.51) | 紫綬褒章受賞.(66歳) |
1977(S.52) | 8月ー10月,原子核国際会議(東京)のため帰国. |
1978(S.53) | 少数核子系に対する日仏共同研究案提出. (68歳) |
1980(S.55) | 1月30日,パリ郊外アントワーヌ・ベクレル病院に入院. 2月1日,逝去.享年70歳.勲三等瑞宝章. |
この小冊子で紹介した明治時代生まれの女性自然科学者たちに続いて、次々といろいろな分野で活躍する女性たちが出現してきており、「女性には科学的思考ができない」といった偏見は、急速に消えつつあります。
皆さんよくご存知のように向井千秋さんは、慶応義塾大学の心臓血管外科助手をしていた1983年に宇宙開発事業団のペイロードスペシャリストに選ばれ、1994年7月、米国のスペースシャトル「コロンビア」号に搭乗して、宇宙から地球を眺め、いくつもの実験を行いました。
他にも、国際的な水準で貴重な研究をしている中堅の自然科学者が多数います。たとえば、国立極地研究所の東久美子助教授は、 科学技術庁防災科学技術研究所勤務だった1991年から1997年にかけて、カナダの地質調査所や、中国の蘭州氷河凍土研究所と国立極地研究所との共同研究、北極域のいくつかの氷河で雪氷コアのボーリングと分析を行い、雪に含まれている酸性物質の濃度の歴史的変動を地球規模で調べ、大気汚染の影響で北極域では過去50~100年の間に酸性化が急激に進んだことを推定されたそうです。さらに、スウェーデンのルンド工科大学の浜本育子教授は、原子核物理理論の分野で活躍しています。
自然科学分野の研究者の仕事ぶりを見ていると、研究する好奇心、論理構成力、想像力に加えて、研究持続のために自分の身体と上手に付き合う工夫が察せられます。さらに、男性研究者がのびのびと研究している研究室では、女性研究者もその実力を発揮しているようです。人文会の分野でも、研究は一人で進められるものではありませんが、自然科学の分野では、特にチームワークの必要性が大きいようです。
また、1971年には日本の大学で初の女性理学部長に生物学の稲葉文枝教授(奈良女子大学)、続いて1973年、化学の阿武喜美子教授(お茶の水女子大学)が理学部長に就任し、女性科学者のリーダー・シップの力を証明しました。
学会での活動も大切です。科学技術庁防災科学技術研究所の石田瑞穂博士は1995年から1999年まで日本地震学会会長の任にあり、米澤富美子慶応義塾大学教授は1996年から1997年まで日本物理学会会長を務めました。しかし、日本物理学会会員19,230名(1996年8月)中、女性は647名(3.4%)にすぎません。日本学術会議では1980年まで女性会員は皆無でした。第4部理学、第6部農学においては、1981年から1985年猿橋勝子(気象学・地球化学)、1985年から1994年林雅子(家政学・被服科学)、1994年から現在、島田淳子(家政学・調理科学)などの先輩が女性会員となって活躍してきています。
女性科学者がお互いに励まし合う場として、1958年4月には「日本婦人(女性)科学者の会」が誕生し、1980年には「婦人(女性)科学者に明るい未来をの会」が生まれています。さらに、1992年「日本女性技術者フォーラム」なども結成されています。しかし、大学?冠学会などでの女性研究者比率はまことに低い状況です。それでも近年、理工系の学部に入学する女子学生は増えているので、21世紀の自然科学の場での女性研究者のますますの活躍が期待されます。
原 ひろ子(お茶の水女子大学ジェンダー研究センター長・教授)
本内容は1998年10月に、お茶の水女子大学理学部・ジェンダー研究センター及び日仏理工科会によるラジウム発見100年記念事業実行委員会から発行された冊子「女性科学者の源流」より転載しました。